「このレポートは、「日本書記」で構築された日本古代史を、敗者の側から眺めるものである。古代の日本列島には、諸外国から多くの異民族が、それぞれの目的により渡来し、それぞれの部族国家が存在していた。その異民族の文化を抹殺したのが、645年軍事都市明日香ヤマトを壊滅した、仏教を侵略思想武器とした、唐進駐軍と藤原氏である。当レポートは、日本列島に古墳が出現した三世紀後期から、その古墳時代が終わる、645年までを考察するものである。そして、第一章は、古代日本列島に渡来した民族と文化を知るために、オリエント史を述べることにする。」、とあった。 それに続く文章が、論文形式ではなく、どうみても、シナリオ形式だ。そこには、いつ、どこで、だれが、何をした、と簡潔に記述されていた。その記述が、年代順のブロックとなっていた。田辺さんのレポートを要約すると、以下のようだ。 第一章「オリエントから日本列島へ」 No.1、紀元前14世紀黒海沿岸に、鉄器製造を発明したヒッタイト帝国から、エジプト王国へ、土木建築技術者一団が渡来した。そのヒッタイト帝国では、三神からなるミトラ神は、太陽神の化身として、異国民族との交易を見守る神として信仰を集めていた。 No.2、ヒッタイト帝国の技術者は、エジプト王国のアメンホテプ4世の宗教改革により、新都アケトアテンの造営のために招かれたのだ。アメンホテプ4世は、多神教により宮廷を支配する神官達を排除するために、ヒッタイト帝国の太陽神であるミトラ神から、唯一神アトン神を発明した。しかし、急激な宗教改革に対して、神官達は反乱を起こし、アメンホテプ4世一家は暗殺されてしまった。その結果、エジプト王国で建築技術者として優遇されていたヒッタイト帝国の技術者達は、エジプト神官の迫害を逃れて、シナイ半島に逃れた。 No.3、そのシナイ半島で、バビロニアから放浪してきた民族と合同して、エジプト軍に廃墟とされたカナンの地にたどり着くと、その二つの異民族は、紀元前1230年ヘブライ王国を築いた。 No.4、そのヘブライ王国は、海岸地域を支配する海洋交易民族フェニキアの外洋交易船を利用して、南インドと交易をおこなった。しかし、バビロニアからの民族は、ヒッタイト帝国からの民族を支配下に置いたため、ソロモン王が死去すると、紀元前932年ユダ国とイスラエル国に分裂した。分裂は時間の問題だった。それは、その二つの民族は、祀る神が異なっていたからだ。ヒッタイト帝国からの民族は、太陽神と牡牛を祀る多神教だ。それに対して、バビロニアからの民族は、エジプト王国の太陽神の唯一神アトンを取り入れ、唯一神ヤハヴェとして祀った一神教だ。 No.5、太陽神と牡牛を祀るイスラエル民族は、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより滅ぼされ、アッシリアの砂漠に消えてしまった。一方のユダ王国は、紀元前586年バビロニアにより滅亡した。しかし、バビロニアが、紀元前538年滅びると、再びカナンの地に戻ることが出来た。この異なる二民族は、645年日本列島で、再び出会い、そして、戦い始めることになる。 No.6、紀元前334年マケドニア王国のアレクサンドル大王は、グラニコス川の戦いにより、東征を開始した。アレクサンドル大王は、ペルシャ帝国への侵略を開始したのだ。このアレクサンドル大王により、紀元前330年ペルシャ帝国が滅亡した。これにより、アレクサンドル大王の支配地は、ギリシャから北インドのガンダーラ地域までとなった。しかし、紀元前323年アレクサンドル大王がバビロニアで病死すると、統制がきかず、内部分裂により、紀元前301年最後の支配者デメトリオスが、イプソスの戦いでアンチゴノス緒将に敗れ、広大なアレクサンドル大王領は、マケドニア王国、エジプト王国、トラキア王国、パルチア、バクトリアなどに分割された。しかし、その北インドを支配したギリシャ文化を継承したバクトリは、東征を止めなかった。 N0.7、北インドを支配したバクトリアは、中国大陸で紀元前403年から始まった戦国時代を統一するために、秦を軍事援助することにより、紀元前221年中国の戦国時代が終わり、ここに秦帝国が興った。秦帝国の母国バクトリアは、中国では大月氏と呼ばれた。 No.8、中国戦国時代中期、北アジアでは騎馬民族匈奴が興った。騎馬民族の歴史は、現在でも謎が多い。それは、騎馬民族は、基本的には歴史書を持たないで、自然の法則に従い、定着せず、移動を繰り返す、地上に建築遺跡を残さない「風の王国」だからだ。騎馬民族の歴史は、紀元前五世紀のギリシヤの歴史学者ヘロドトスの「ヒストリア」によれば、紀元前八世紀カスピ海北岸に興ったスキタイが始めだ。スキタイが騎馬民族となれたのは、鉄器製造技術を保持していたからだ。鉄器製造技術により、轡を作り、馬の口にはめ、手綱により馬を制御可能にしたのだ。その鉄器製造技術は、カスピ海南岸を支配する、敵対国アッシリアの捕虜から手に入れたものだ。アッシリアには、鉄器を発明したヒッタイト帝国→エジプト王国→ヘブライ国→イスラエル国へと流れた民族がいた。そして、そのイスラエル国は、紀元前722年アッシリアに滅ぼされていたのだ。母国を失ったヒッタイト帝国の鉄器製造技術を持つイスラエル民族には、エジプト王国で習得した、石切技術・石組み技術・運河掘削技術を保持していた。スキタイ民族は、そのイスラエル民族の技術を取り込むことにより騎馬民族として、北ユーラシアの覇者となり、東進することにより、紀元前3世紀には、そのスキタイ民族末裔が、東ユーラシアに渡来して、遊牧原住民を取り込み、騎馬民族匈奴として、南の農耕民族国と対峙していた。 No.9、紀元一世紀、ローマ共和国は、ギリシャ・マケドニア王国・ペルガモン・エジプト王国を支配すると、アウグスツスは、初代ローマ皇帝となり、ここにローマ帝国が興った。ローマ帝国軍は、ロンギヌスの槍と盾により、隣国を支配国とすると、ローマ帝国軍式直線道路により、戦略品をローマ都市に持ち込むことにより、国際交易商人が多く集まるようになった。そして、富の蓄積により贅沢品の絹の需要が激高した。その絹の生産地の中国後漢には、オリエントから国際交易商人が多く渡来した。その後漢は、北の匈奴との戦闘に対処するために、俊敏なアラブ馬を求めていた。ここに、絹を求めるローマ帝国と、アラブ馬を求める後漢による、絹馬交易が始まった。97年後漢の和帝は、甘英をローマ領に派遣した。 No.10、紀元一世紀、ローマ帝国と後漢との絹馬交易の中継国際交易都市、ギリシャ文化継承国のガンダーラで、不思議な宗教が発明された。それが無数の経典を著した大乗仏教だ。大乗仏教の祖とする釈尊は、バラモン教の偶像崇拝主義を否定するために、仏像製造を禁止していた。しかし、大乗仏教徒は、ギリシャ彫刻思想により、写実的なガリガリ仏像を造った。148年パルチア王国の僧安世高は、後漢の洛陽に渡来し、仏典を訳した。定説では、サンスクリット語から、漢語に訳したことになっている。では、405年鳩摩羅汁が、後秦で漢訳したとする仏典原著は、何語で著されていたのか。 No.11、166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者が、後漢に渡来した。ローマ帝国では、シルクロードの交易権をめぐって、隣国のパルチア王国と度々戦闘をおこなっていた。ローマ帝国は、パルチア王国との戦闘に対して、後漢の加勢を求めたのだ。しかし、後漢は、匈奴を北アジアから駆逐した、騎馬民族鮮卑の度重なる攻撃により、疲弊し、220年滅びた。その後漢が分裂し、魏・蜀・呉の三国時代へ突入した。東アジアの中国北部を支配した魏は、ローマ帝国と絹馬交易をおこなうため、日本列島での繭生産経営に乗り出した。この時代の日本列島の様子は、「魏志倭人伝」により、窺がい知ることが出来る。この魏・蜀・呉の中国三国時代に、日本列島は古墳時代の黎明期に突入したのだ。三世紀の日本列島には、周辺諸国から、多くの異民族が渡来していた。 第二章「前方後円墳とは何か」 No.1、日本列島史は、645年藤原氏の前政権史料焚書により、その史実を文献により知ることは出来ない。しかし、中国の史料には、日本列島の記述がある。それらの史料により、古代日本列島史を復元することにする。 No.2、藤原日本史のトリックは、日本列島は孤島で、倭人が九州を支配していたとし、その倭人が、近畿一帯に侵攻し、原日本人となったとすることだ。 No.3、中国南朝の梁(502年〜557年)の歴史書「梁書」によれば、5世紀の日本列島には、倭国(北九州+朝鮮半島南端)、文身国(出雲)、大漢国(大阪)、扶桑国(東北以北)の四カ国の存在が記されている。 No.4、この日本列島の謎の四世紀、藤原日本史では、南朝の宋(420年〜479年)の歴史書「宋書」にある、倭王、讃、珍、済、興、武の五王を、讃は仁徳天皇か履中天皇、珍を反正天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇とする。しかし、その藤原日本史の「ウソ」は、502年倭王武が、梁の武帝により、征東大将軍となったとする「梁書」の記事が暴くのだ。雄略天皇が、502年梁王から、征東大将軍に任命されていたとすると、その年代前後に存在したとされる、万世一系である清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武列天皇の存在が否定されるからだ。 No.5、日本列島の謎の四世紀、日本列島に前方後円墳が出現した。藤原日本史では、大和盆地の東部三輪山麓の傾斜地に、突然、全長250mを超える巨大前方後円墳が出現したことをもって、四世紀の飛鳥大和には、強力な権力組織があったとした。それが、藤原日本史が述べる、大和朝廷だ。しかし、東海・北陸以東では、越中、能登、越後、福島県会津にも、墳長50mを超えない前方後円墳が出現していた。 No.6、飛鳥大和に巨大古墳が築けたのは、強力な政権が存在していたからではなく、その奈良盆地は、定期的な氾濫により、人が住めぬ大湿地帯であったからだ。その大湿地帯を居住地に改良するために、又、朱砂の産地の宇陀の先住民を取り込むために、巨大前方後円墳が、渡来者の意図の下に築かれたのだ。その根拠として、6世紀半ば、オリエントから渡来民族や北アジアを支配した突厥軍団が、明日香ヤマトを支配すると、その奈良盆地では、前方後円墳ではなく、オリエント方式の方墳や八角墳が築かれて行くのだ。しかし、奈良盆地の外側では、前方後円墳が築かれ続けていた。藤原日本史が述べるように、前方後円墳が、歴代天皇の墓であるとするならば、このことをどう説明するのか。 No.7、古墳は民族の思想を表している。古墳時代前期、大和地方では、前方後円墳や新羅慶州に多く存在した円墳が主であった。しかし、イズモ地方、島根県東部、鳥取県、広島県北部山地、富山市では、四隅突出型墳丘墓という、四隅が突き出た四角い糸巻き型方墳が存在していた。しかし、そのイズモ地域では、古墳時代後期になると、四隅突出型墳丘墓に替わり、大型方墳や前方後円墳が、飛鳥大和では、646年薄葬令により巨大古墳築造が禁止されていたのに、依然として築かれ続いていたのだ。これを、藤原日本史では、どう説明するのか。 No.8、前方後円墳が飛鳥大和に出現した、日本列島の謎の四世紀、中国大陸では五胡十六国の時代であった。五胡とは、匈奴、羯(せつ)、鮮卑、テイ、羌(きょう)だ。匈奴、羯、鮮卑は、チュルク系民族で鼻が高く、髭が濃い、それに対して、テイ、羌は、チベット系民族で鼻は低く、髭が薄い。これらの、漢民族ではない、異民族が中国北部黄河沿いに国を興していた。この4世紀から5世紀半ばまでの約150年間、漢民族ではなく、西域の騎馬民族や遊牧民族が、150年間にわたり北部中国を支配していた。 No.9、四世紀半ば、朝鮮半島では、紀元前1世紀に興った高句麗に対抗して、346年百済が、356年新羅が興った。この朝鮮半島三国時代に、372年前秦から高句麗に仏教が伝来し、384年東晉より百済に仏教が伝来した。しかし、新羅では、仏教が伝来したのは、528年であった。新羅は、527年まで、女王国でギリシャ・ローマ文化国であった。 No.10、この中国五胡十六国時代の4世紀から5世紀半ばの150年間、中国の記録には日本列島の記述はない。騎馬民族や遊牧民族は、農耕の定着民族ではないため、土地の支配権を主張するための「歴史書」を持たない。だから、藤原日本史での、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の存在を、中国史料で確認できない。 No.11、「漢書」には、紀元前2世紀から紀元前1世紀にかけて、朝鮮半島の楽浪の海内には、倭人がいて、分かれて百余国をなしていたとの記述がある。「後漢書」には、紀元1世紀から2世紀に、倭の奴国が朝貢して来たとあり、その奴国は倭の極南界にあり、57年後漢の光武帝は、奴国の使者に印綬を授けた、とある。この中国史料から推測すると、倭国は、九州ではないことが分かる。紀元1世紀から紀元2世紀の200年間、倭国は朝鮮半島にあり、奴国は、朝鮮半島南端にあった。 No.12、中国王朝で云う倭人とは、どのような民族か。「後漢書」の「鮮卑伝」には、光和元年(178年)鮮卑王の壇石槐が、河川にいる魚を捕えるために、倭人を捕虜としていた、とある。鮮卑(93年〜319年)の支配地は、後漢と対峙する内陸の東ユーラシアで、海に接してはいない。そのような騎馬民族の鮮卑が、玄界灘の海を渡り、北九州の倭人を捕虜にすることができるのか。このことからも、1〜2世紀の倭人は、海洋漁労民族ではあるが、、朝鮮半島沿岸だけではなく、中国大陸の内陸まで、暮らしていたことを示唆する。 No.13、青森地方に東日本最古の弥生時代前期の水田跡が発掘されている。弥生時代とは、紀元前1世紀頃から3世紀中頃までだ。東北から出雲にかけて、弥生時代以前の縄文時代から、日本海沿岸には巨木文化があった。その縄文人は、琥珀・黒曜石・翡翠の国際交易のために日本海を渡海して、中国大陸と国際交易をおこなっていた。そして、その日本海は、東南アジアからの黒潮が流れ着くところだ。古代青森地方は陸稲だ。水田稲作は、南インド、東南アジアの技術だ。その青森の水田稲作が、弥生時代前期に青森に伝播していたことは、南インドのタミル語を話す民族の渡来を示唆する。 No.14、弥生時代、倭人の祖は、南インドや東南アジアから、黒潮に乗り、中国大陸沿岸、朝鮮半島、北九州、そして、日本海を通り、秋田まで渡来していた。古代の日本列島は、藤原日本史が述べるように、孤島などではなかった。そして、古代の日本海には、沿岸に巨木で組み上げられた「灯台」を目印に、国際交易船が行き来していた。 No.15、では、弥生時代に、何故、極東の日本列島に、はるばる遠方から危険を冒してまでして、異民族が訪れたのか。考えられるのは、紀元1世紀に始まる、ローマ帝国と後漢による絹馬交易での絹の需要だ。19世紀に、イギリス東インド会社が、薩摩の藤原氏(近衛家)と結託して明治革命を企画した目的のひとつが、中国での絹生産が内乱により減産したため、その絹の需要を日本列島に求めたためだ。1872年富岡製糸場開業と1872年新橋・横浜間鉄道開通は偶然ではない。戊辰戦争最中に建設していたその二つの事業は、紀元1世紀のローマ帝国時代からから続いていたシルクロード交易の極東、日本列島の北関東の絹製品を横浜港からイギリスに持ち出すためだった。 No.16、日本列島の繭が優れていたことは、唐の詩人張説の「梁四公記」に、「東方の扶桑に行くと大きな蚕がいる。その糸は強く卵は大きいが、その卵を高句麗まで持って行き育てると、中国の蚕の卵のように小さくなってしまう。」と記されている。絹につていは、「日本書記」応神朝に弓月君が120県の人民を率いて帰化し、朝廷に庸調の絹を貢進した、との記述がある。平安時代に著された「新撰姓氏録」にも、秦酒公は、秦民92部18670人を率いて、絹を貢進し、酒公は長官に任じられた、とある。絹は、古代でも、明治時代でも、日本列島の国際交易品であったのだ。その日本列島で養蚕の繭は、弥生時代に、タミル語を話す民族により、水田稲作技術と供に持ち込まれた、ポンピックス・モリ種だ。日本列島は、紀元1世紀より、国際交易商人により、中国に供給する繭生産基地となっていたのだ。 No.17、日本列島謎の4世紀にいたる3世紀については、中国史料が、参考となる。「魏志倭人伝」に、247年邪馬台国に軍事顧問の張政を派遣した、との記述がある。その報告によれば、邪馬台国の武器について、矛、盾、木弓、鉄鏃、骨鏃がある、との記述がある。弥生時代の遺跡で、矛が出土するのは北九州の福岡県が中心だ。大和朝廷が四世紀に出現したとする、奈良県は無だ。鉄鏃は、福岡県171個、奈良県2個だ。その「魏志・韓伝」には、邪馬台国は朝鮮半島で、韓人らと争って鉄を採取していた、とある。そして、「魏志倭人伝」には、「魏の皇帝に倭錦、異文雑錦などを贈った。」との記述がある。弥生時代の遺跡で、絹が出土しているのは、福岡県比恵、有田、吉武高木などの北九州だけだ。3世紀、倭人は朝鮮半島から、北九州に渡来して、絹を生産して、魏に貢いでいたのだ。その邪馬台国の卑弥呼には、魏の軍旗を与えられて、その上、魏の軍事顧問も送られていたのだ。そして、「魏志」には、「倭人は自らを、中国三国時代の「呉」の泰伯の子孫だと名乗った。」、との記述がある。3世紀の北九州の倭人中には、中国大陸から渡来した者もいたのだ。 No.18、藤原日本史によると、四世紀に、倭国があった九州から大和に侵攻した天孫族が、その飛鳥大和に、天皇家の墓として巨大前方後円墳を築き、その後、仲哀天皇と神功皇后とにより朝鮮半島新羅の征伐に赴き、仲哀天皇が九州の地で死んだために、神功皇后が新羅を征伐し、飛鳥大和に凱旋して、応神天皇を生んだ、とする。では、天孫族以前に飛鳥大和を支配していた、倭人を祖とする倭国は、四世紀には滅亡していたのか。「唐書」によれば、「倭国」と「日本」がはっきりと別の国として記述され、648年「倭国」は唐とまた交流することになった、との記述がある。そして、「唐書」には、「日本」の記述は、大和政権の年号である大宝3年(703年)からである。因みに、今日の平成年号まで続く、日本初の年号は、大宝元年(701年)からだ。それ以前の「日本書記の年号」は、中国史料では確認できない。つまり、701年以前の「日本国としての年号」は、藤原氏が創作した年号だ。 No.19、藤原日本史では、謎の4世紀を隠蔽するために、そして、4世紀に突然明日香ヤマト現れた巨大前方後円墳の歴史を隠蔽するために、仁徳天皇を登場させる物語に繋げる応神天皇←仲哀天皇(神功皇后)←成務天皇←景行天皇の九州平定物語や新羅征伐物語を「日本書記」で創作したが、その神功皇后の新羅征伐物語は、100年前の中国史料と「魏志」史料を引用していたために「ウソ」が暴かれた。それは、「明帝の景初3年(239年)6月、倭の女王、大夫難升米等(たいふなしめら)を遣わして、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。」、「正始元年(240年)、建忠校尉・梯携印綬を奉りて倭国に詣らしむ。」の文章を、神功皇后新羅征伐物語に挿入していたからだ。景初3年・正始元年は魏・蜀・呉の三国時代の年号で、魏の属国邪馬台国の卑弥呼の時代で、4世紀よりも、100年前の年号だからだ。 No.20、では、謎の4世紀に、明日香ヤマトに突然現れた巨大前方後円墳は、どのような民族により築かれたのか。3世紀までの奈良盆地は、大阪の河内湾が堆積により埋まり、河内湿原に運河を造ることによって河内平野となり、水田稲作地となっても、その上流は、大湿地帯のままだった。だから、その大湿地帯の奈良盆地に到達するには、生駒山麓を迂回するルート以外の「道」が必要だった。 No.21、奈良盆地は、縄文時代の昔から、三輪山麓では、異民族による朱砂などの沈黙交易がおこなわれていた。それは、その三輪山麓は、大湿地帯と、流れ込む川が定期的に氾濫する自然の要塞だったので、宇陀の先住民は、安心して、異民族と国際交易をできたからだ。その三輪山麓の交易地に至るルートは、北九州から、四国を抜け、紀伊から吉野を抜け、伊勢に至る、中央構造線の断層に沿って、縄文の時代から、呪術に必要な朱砂を採取した民族により、開発されていた。 No.22、奈良盆地の三輪山麓の傾斜地に、巨大前方後円墳が築かれた少し前、中央構造線上にある和歌山県紀ノ川河口にも、前方後円墳が出現していた。しかし、その前方後円墳は、平安時代以前に破壊され、溝だけが発掘された。その溝の中から発掘された土器の破片により、その年代が4世紀初期と分かった。そして、その付近から、当時の日本列島では珍しいガラス製の小玉や管玉が出土した。ガラス製造技術は、ギリシャ都市国家と騎馬民族スキタイが交易と戦闘を繰り返した、紀元前七世紀頃のカスピ海沿岸で発明されたのだ。 No.23、日本列島初の前方後円墳が、三輪山麓の傾斜地ではないことは、近年の考古学の研究で証明された。3世紀末から4世紀までに、香川県鶴尾神社4号墳、福岡県津古生掛古墳、兵庫県養久山1号古墳、福島県堂ヶ作山古墳、杵ヶ森古墳などの前方後円墳が、全国的に同時期に築かれている。藤原日本史では、このことを、4世紀に巨大前方後円墳を築いたとする飛鳥大和朝廷が、全国を平定した証拠だと述べている。 No.24、では、その前方後円墳は、大和朝廷のオリジナルなのか。1990年中国国境鴨緑江沿いの旧高句麗支配地だった地域で、紀元前後の積石塚の高さ2m長さ約15m前後の前方後円墳が発見された。積石塚は、日本列島では、香川、徳島、長野、山梨、山口各県で、計約1500基も発掘されている。古墳表面に葺き石を施した「積石塚風」の古墳は、日本列島では無数に発掘されている。そして、1991年朝鮮半島全羅南道咸平郡礼徳里の新徳古墳が発掘された。その横穴式石室の入り口がラッパ型、中央に棺台があり、そして、石の積み方などの特徴が、九州の古墳、佐賀県関行丸古墳と全く同じ構造であることが分かった。その築造時期は、5世紀後半から6世紀前半だ。そして、轡などの馬具、鉄鏃、金製耳飾などが出土した。この出土品は、熊本県江田船山古墳とよく共通していた。これらの考古学上の研究から、前方後円墳は飛鳥大和政権のオリジナルではなく、北方系の騎馬民族の埋葬施設であったことが示唆される。 No.25、前方後円墳の初期にはなかった、横穴式石室は、どのような民族により造られたのか。横穴式石室が、日本列島に現れたのは、5世紀からだ。そして、埋葬品が、祭祀道具から、戦闘道具の馬具や鉄武器に替わっていた。この頃、東アジアの中国では、騎馬民族や遊牧民族が支配した、五胡十六国時代だった。 No.26、この中国大陸が、騎馬民族や遊牧民族により支配された五胡十六国時代の3世紀半ばから、日本列島には突然古墳が現れた。そして、四世紀初期には、岩手県以南から九州まで、相似形の前方後円墳が現れ、約300年間も古墳が築かれていたのだ。そして、5世紀となると、埋葬品は祭祀道具ではなく、戦闘用馬具や鉄製の武器や農具となっていく。 No.27、藤原日本史では、四世紀の飛鳥大和朝廷が、全国の支配地に前方後円墳を築いたとするが、東北の会津は、801年坂上田村麻呂が蝦夷棟梁のアテルイをだまし討ちをした平安時代までは、独立国であった。信濃のわさび農園に掲示してある、八面大王が坂上田村麻呂に滅ぼされた物語は、平安時代初期まで、信濃も独立国であったことを示唆する。 No.28、北関東のさいたま県稲荷山古墳から、115文字を記した鉄剣が発掘された。その文字には、ヲワケ(騎馬民族の王の意味)がワカタケル大王のために鉄剣を捧げた、とあった。そして、ワカタケル大王は「シキの宮」に住んでいた、とあった。遺跡・発掘物のなにもかもを「日本書記」に結びつける歴史学者により、ワカタケル大王が「雄略天皇」だとされ、5世紀には、さいたま県まで、飛鳥大和朝廷の支配権がおよんでいた、とされた。しかし、「日本書記」によれば、雄略天皇が暮らした宮は、二つで、「泊瀬の朝倉」と「吉野宮」だ。「シキの宮」などに暮らしたとの記述は、「日本書記」にはないのだ。では、「シキの宮」とは、何処か。それは、北関東だ。ワカタケル大王は、飛鳥大和などではなく、北関東の大王だった。北関東の群馬県前橋市の前方後円墳の前二子古墳は、九州熊本県宇土半島周辺で発見される「肥後型石室」と同じ横穴式だ。「肥後型石室」とは、横穴式の奥を床から20cmほどの高さに仕切り、ベット状の切石で棺台を造ったものだ。5世紀の北関東は、江戸時代に北九州で流行した「ハンヤ節」が北前船により小木港に上陸し「佐渡おけさ」として歌われたように、九州と何らかの文化交流があったのだ。 No.29、横穴式石室は、5世紀に現れた。そして、その埋葬土器も、陶質土器となっていた。従来の土器は野焼きで800℃で焼き上げた。しかし、陶質土器は、1200℃だ。1200℃の高熱を得るには、自然の風ではなく、フイゴの人工風が必要だ。そのフイゴは、鹿の皮で作られていた。須恵器の陶質土器は、製鉄民族と同じ高温で焼き上げられていた。5世紀の日本列島には、タタラ製鉄をおこなう民族が渡来したことを示唆する。 No.30、6世紀初めに築かれた和歌山県井辺前山10号墳は、珍しく、山頂にあり、そこからは、ユーラシア大陸の文化を色濃く背負った大量の埴輪が出土した。その中に、牛やサイの角で作った角杯を背負った人物埴輪があった。角杯は、東北アジア一帯の騎馬民族が使う、ミルクや酒を飲むためのものだ。同じモチーフの埴輪は、ギリシャ・ローマ文化の新羅の都慶州の瑞鳳塚から出土している。更に、短弓を左手と肩で支えた人物埴輪も発掘された。4世紀から中央ユーラシアで活躍した騎馬民族は、騎射のために、南方系の長弓ではなく、短弓だった。その短弓でも、強く射ることができたのは、弓のしなりだけではなく、動物の小腸から作った弦の弾力性を利用したからだ。北条鎌倉時代から始まる流鏑馬で、短弓ではなく、長弓が使われたのは、騎馬民族の武家源氏三代を謀殺した平氏の北条氏が、騎馬民族ではなかったことを示唆する。そして、ふんどしを付けた力士埴輪も計6体出土した。藤原日本史によれば、日本国の相撲の歴史は、「日本書記」に、垂仁紀7年(4世紀初期か?)に、大和の当麻蹴速と出雲の野見スクネ(古代ペルシャ語で「勇者」の意)に角力(相撲)をとらしめ、野見が勝った試合が初めである、とする。しかし、日本の相撲の源流は、東アジア北方の騎馬民族の格闘技だ。この騎馬民族の格闘技は、高句麗を経て、日本列島にもたらされた。その根拠は、高句麗の安岳3号墳の壁画に、モンゴル相撲図が描かれていたからだ。 No.31、5世紀の日本列島には、北方ユーラシアの騎馬民族が、大挙して渡来したようだ。5世紀後期に築かれた和歌山市古谷古墳からは、騎馬戦用の馬冑・馬鎧・蒙古鉢兜が出土しているが、それと同形の馬冑・馬鎧が朝鮮半島南部伽耶釜山10号墳から出土している。更に、それらの武具類は、和歌山だけではなく、さいたま県さきたま古墳群将軍山、福岡月の岡両古墳からも出土している。このことから、前方後円墳は、朝鮮半島から北九州に渡来して、吉備→近畿へと築かれて行ったと信じられているが、4世紀前期の飛鳥見瀬丸山古墳と同型の前方後円墳が、東北の会津若松で大塚山古墳が発掘されている。藤原日本史では、これをどのように説明するのか。古代東北には、藤原氏により消された歴史があるようだ。 No.32、奈良時代、藤原氏が唐進駐軍の軍事力を背景に、大和朝廷の中枢に入り込むと、祭祀者として、前方後円墳を破壊していくのだ。718年奈良に平城京を遷都するが、その地には、巨大前方後円墳が存在していた。平城京は、前方後円墳跡に築かれた都だった。これは、正に、392年ユダヤ教ヨシュア派が、ローマ帝国の国教となったキリスト教により、ローマ帝国軍の軍神であったミトラ教を歴史的に抹殺するために、ミトラ地下神殿が徹底的に破壊された跡に、キリスト教教会を建てた戦略と同じだ。そして、その平城京に、藤原氏の氏寺である興福寺を建設するのだ。そして、その興福寺の東側の山の麓に、藤原氏の「本当の神=中臣神道」(ユダヤ教と酷似)を祀る春日社を建立した。そこは、牡牛を屠るミトラ教の祭祀場があった場所だ。奈良時代の藤原氏は、前政権の歴史を消すために、全国に存在した前方後円墳を破壊して、その跡に、社(モリ→神社)や神宮を建て、騎馬民族の歴史を消していたのだ。社・神社(モリ)や神宮は、「日本書記」で述べているように古代から存在していたのではなく、奈良時代に、藤原氏により、古墳跡に建立されていたのだ。本殿が存在しない、空き地を祀る社・神社(モリ)の謎は、そのことにより解明できる。 No.33、4世紀初めに、東北の会津若松に、前方後円墳の大塚山古墳が築かれていたことは、東北には、4世紀初めに騎馬民族が渡来していたことを示唆する。奈良時代に、出羽国一帯にあった古墳跡に、藤原氏により古四王神社(モリ)が建立されていたことから、前方後円墳を築いた騎馬民族の渡来の流れは、紀元前1世紀から朝鮮半島付け根を支配した強大な高句麗を避けるために、中国大陸北方→日本海北方沿岸→秋田・新潟→会津→常陸→下総→上野→甲斐→加賀→近江→丹後→河内→大和へのルートが考えられる。これは、「古事記」の倭健の東征物語ルートのほぼ逆を示している。5世紀初期から7世紀後期までの約300年間、日本列島の岩手以南から九州まで、前方後円墳を築いていた騎馬民族の歴史は、奈良時代に、藤原氏が支配した中臣神道と仏教により消されていたのだ。 第三章「552年伝来の仏教とは何か」 No.1、日本人の多くは、日本国は仏教国だと思っているようだ。そして、日本神話は、「古事記」にあるように、日本古来のオリジナルだと信じているようだ。しかし、現在の仏寺にある仏像の多くは、バラモン教やヒンズー教の神・鬼がその祖だ。そして、「古事記」にある日本神話物語のルーツは、ギリシャ神話がその祖だ。何故、そのような外国の神・鬼や神話物語が、日本古来のオリジナルと信じられるようになってしまったのか。 No.2、その謎は、645年にあるようだ。藤原日本史で云う、「大化の改新」の解明が、藤原氏が「日本書記」で封印した古代日本史の封印を解くのだ。それは、「大化の改新」が、オリエント文化の明日香ヤマトの歴史を消すために、藤原氏により創作された架空の物語であるからだ。その根拠は、「日本書記」にある、「大化の改新物語」のストーリは、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーであるからだ。その645年「大化の改新」では、「藤原氏」の祖、祭祀者である中臣氏が、中臣鎌足となって初めて歴史上に登場するのだ。しかし、「日本書記」の神話物語では、藤原氏の祖神が、アマテラスオオミカミの天磐戸物語での祭祀者天児屋根命として登場しているのだ。ここからも、645年「大化の改新」での藤原氏の出自の「うさん臭さ」が臭う。日本古代史の謎は、藤原氏の謎なのだ。 No.3、その日本古代史の謎解きは、4世紀から150年間にわたる中国大陸の五胡十六国時代から始まる。しかし、その謎解きのための史料は多くはない。4世紀の東アジアの歴史は、空白なのだ。それは、漢字を発明した漢民族ではなく、自然に従い定着しない「風の王国」の騎馬民族が支配者だったからだ。 No.4、何故、藤原日本史では、4世紀の明日香ヤマトに、大和朝廷が存在していた、と主張するのか。それは、645年以前の明日香ヤマトには、中国大陸から、日本海を渡り、東北の日本海沿岸に渡来した騎馬民族が、支配者として存在していたからだ。それは、日本列島は、東アジア大陸の回廊だからだ。北海道から本州、沖縄列島を通れば台湾にたどり着く。台湾からは、絹生産地の中国南朝は眼前だ。 No.5、絹は、中国南朝で主に生産されていた。ローマ帝国との絹馬交易のために、ユーラシアの騎馬民族は、北朝諸国を避け、朝鮮半島付け根を支配する高句麗を避けるには、縄文時代から続いていた中国大陸へたどり着くために、日本列島の島ずたいの海路を利用したのだ。 No.6、「魏志倭人伝」には、倭国には馬・牛がいないとされたのに、3世紀後期から出現した古墳には、馬の埴輪が埋葬されていた。では、どのような民族が、日本列島に馬を持ち込んだのか。 No.7、国際交易品の馬を繁殖させるには、日本列島の東北は、気候も土地柄もユーラシア大陸と、大変似通っているのだ。東ユーラシアから新潟に渡来して、阿賀野川を遡れば、そこには大草原に囲まれた猪苗代湖があり、又、信濃川を遡れば、そこにも大草原に囲まれた諏訪湖がある。5世紀から、その会津、諏訪には、馬具や鉄武器・農具が埋葬された前方後円墳が築かれていくのだ。 No.8、その諏訪では、渡来騎馬民族は、海洋民族の安曇族と遭遇するのだ。騎馬民族と海洋民族には、国際交易民族としての共通点がある。そして、物流での補完がある。海を渡るには船が必要だ。陸地を行くには馬が必要だ。この船と馬を使うことにより、日本列島での物流網が完成するのだ。しかし、古墳を破壊する奈良時代になると、日本列島の川と山の交易路を開発した海洋民族と騎馬民族の交易権が、唐進駐軍の後ろ盾を得た仏教組織に奪われると、川筋に暮らす海洋民族は「カッパ」と貶められ、そして、山道に暮らす騎馬民族は「テング」として貶められて行くのだ。 No.9、安曇(アズミ)の地名は、「地名大辞典」によれば、新潟、長野、富山、岐阜、山梨、大阪、岡山、奈良、和歌山、兵庫、鳥取、福岡にある。このアズミの地名を辿れば、安曇族の交易ルートが分かる。古代の日本列島では、東北の新潟から、九州の福岡まで、海洋民族の安曇族が、国際交易のため、外洋船や川船を駆使して行き来していたのだ。縄文時代から始まる、出雲から青森まで続く日本海沿岸の巨木文化は、海洋民族の安曇族の海洋国際交易ルートとの関係を示唆する。 No.10、その海洋民族が活躍し始めた、紀元前1世紀前後の日本列島の北九州は、漢字文化圏にあった。北九州と朝鮮半島南端には、倭族(イゾク)の百余国の都市国家があり、その都市国家はローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた後漢の支配国となっていた。 No.11、1世紀末期頃、東北ユーラシアに興った遊牧民族鮮卑は、騎馬民族スキタイの騎射技術を取り込むと、遊牧民族匈奴を倒し、絹馬交易で潤う後漢を攻撃したことにより、220年後漢が滅び、魏・蜀・呉の三国時代に突入した。 No.12、この中国三国時代、魏は、247年倭国へ軍事顧問の張政を派遣し、邪馬台国と狗奴国との戦争に介入した。邪馬台国は魏の絹生産基地で、女王卑弥呼は、魏に絹を貢納していたからだ。その根拠として、弥生時代の日本列島の遺跡で、絹が発掘されるのは、北九州以外には無い。そして、それは、魏の明帝から、卑弥呼が親魏倭王に封じられて、金印紫綬を授けられていたことからも証明できる。この北九州には、弥生時代の墓が発掘され、その埋葬法は、南インドや東南アジアと同じ、甕棺に屈葬だった。 No.13、265年魏が滅び、晉が中国を統一すると、しばらくは平穏だった中国も、バイカル湖畔に興るチュルク系騎馬民族の東進により、317年頃から五胡十六国の時代に突入する。この4世紀の五胡十六国時代が、中国も日本列島も謎の時代だ。藤原日本史では、この謎の4世紀を、倭の五王の時代とする。しかし、この五倭王とは、飛鳥大和の王ではなく、朝鮮半島南端と北九州を支配していた王のことだ。 No.14、中国の歴史は、各帝国が歴史書を編纂していたので、それにより歴史が「推測」できる。しかし、中国王朝の北に隣接する遊牧・騎馬民族の歴史は謎だ。それらの民族は、歴史書も地上に遺跡も残さないからだ。 No.15、中国漢代の歴史家司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年?)の歴史書「史記」によれば、紀元前3世紀頃、シベリア草原地帯にチュルク系(=トルコ系)の諸民族が存在した。その民族は、紀元前8世紀に、鉄で轡を発明したことにより騎馬を可能にしたスキタイ民族の騎馬技術を習得すると、東西にその勢力を増していった。その騎馬民族は、中国王朝により、丁零(ディンリン)→勅勒(チールー)・高車→鉄勅(ティエルー)と呼ばれ、552年モンゴル高原西方、アルタイ地方に遊牧騎馬民族国家・突厥帝国が興った。 No.16、突厥民族は、ユーラシアを支配した他の遊牧民族や騎馬民族と異なることは、唯一自民族の文字(オルホン・エニセ文字)を創出したことだ。その文字は、象形文字のカナクギ文字で、アルファベットのフェニキア文字・ギリシャ語から影響を受けた表音文字だ。その突厥語の発音も特徴がある。子音に硬・軟の区別があり、母音を省略する。その語順も、中国語語順の、私(主語)+読む(述語)+本(目的語)ではなく、私は(主語)+本を(目的語)+読む(述語)、だ。現在の日本語語順と同じなのだ。そして、突厥語には、中国語にはない、格語尾がある。格語尾とは、日本語の「格助詞」である、「て・に・お・は」と同じ働きをする語尾だ。 No.17、ここに疑問が生じる。それは、日本列島は、紀元前1世紀から江戸時代まで、中国文化の影響を強く受けていた。藤原京、平城京、平安京などの都は、中国の都のコピーだ。そして、日本の正史と信じられている「日本書記」も漢語で記述されている。だったら、日本語語順も、中国語語順でもよいはずた。しかし、日本語語順は、北方騎馬民族の言葉であるウラル語語順だ。これはどうい訳だ。 No.18、日本国には、漢語に対抗して、漢語以前から万葉語がある。そこには、やまと言葉がある、と主張するひとがいる。文字はなかったが、古くから「やまと言葉」が存在した、と信じているのだ。では、その「万葉語」「やまと言葉」とは何か。この万葉語の解明が、藤原氏により消された歴史の封印を解くのだ。 No.19、藤原日本史では、日本古来の言葉で綴られた歌が、飛鳥時代から歌われて、759年大伴家持の歌が最後だから、「万葉集」は759年完成と述べている。しかし、20巻、約4500首ある「万葉集」には、謎が多くあるのだ。現在、出版されている「万葉集」は、奈良時代の759年本ではなく、鎌倉時代に仙覚が、多くの「万葉集」を参考に著した20巻本を基本としているのだ。平安時代に多くの「万葉集」が存在した根拠としては、905年紀貫之等による日本最初の勅撰和歌集「古今集」の序文に、「万葉集」に入らぬ古き歌、みづからのものを奉らしめ給ひてなむ、とあるのに、現在に伝わる「万葉集」巻七の歌が全く同じに15首も「古今集」に入集されているからだ。このことから、現在に伝わるのとは異なる「万葉集」が、平安時代に伝わっていたことが疑われる。 No.20、何故、奈良時代、平安時代に「万葉集」が著されていなかったのか。その謎は、「万葉集」の歌は、安康天皇3年(456年)に即位したとされる雄略天皇から、天平宝字3年(759年)大友家持まで集録されている。「万葉集」には、その456年から756年まで歌われているのに、552年仏教が伝来して、飛鳥大和には仏寺が多く建立され、天皇家を護る宗教として隆盛したと「日本書記」には記述されているのに、仏を詠んだ歌がほとんどないのだ。仏は、「日本書記」で述べているのとは異なり、天皇家では日常生活に関係する「モノ」ではなかったようだ。 No.21、更に、謎は続く。「万葉語」には、濁音を専門にあらわす万葉仮名が使用されていたのに、平安時代に成立した「平仮名」には、長らく濁音をあらわす文字がなかったのだ。「万葉集」の時代には、母音の一部に二種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていた。そして、万葉仮名には、平安時代のひとが聞き分けることができない、音の区別を、明確に書き分けているのだ。 No.22、平安時代とは、唐進駐軍に支援された百済系王朝時代だ。だから、平安時代の貴人の会話は、中国の唐音で発音されていた。唐音は、京都弁の祖だ。その平安貴族が、万葉語の発音を聞き分けることができないことは、何を意味しているのか。それは、万葉歌を歌っていた民族は、平安貴族の祖ではないことを示唆する。明日香ヤマトの民族と平安時代の貴族とは、異なる民族だったのだ。 No.23、では、藤原日本史では、「万葉集」が、何故、759年の奈良時代に完成、としたのか。それは、「万葉集」の構成に、その謎が隠されている。「万葉集」の「巻第一」の巻頭歌は、雄略天皇の歌だ。仏教宣伝バイブルと云われる822年「日本霊異記」も雄略天皇の話から始まる。オオハツセ ワカタケノ スメラミコトと云われる雄略天皇の万葉歌をみてみると、 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも この歌は、毎年若菜摘みで詠われる「よばい」の歌だ。何故、毎年歌われる「よばいの歌」が、雄略天皇の歌と云われるのか。 No.24、不思議は続く。第二の歌は、舒明天皇だ。 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は この舒明天皇の歌が詠われたのは、628年から641年までの間だ。第一の雄略天皇の歌が5世紀後半だとすると、第二の舒明天皇の歌とには、約180年間の空間がある。この180年間には、日本国の黎明期があるのだ。舒明天皇以降は、謎の「大化の改新」があった孝明天皇の時代を除いて、各天皇ごとに途切れなく続いているのだ。 No.25、「古事記」を、「日本書記」の「黙示録」とすれば、「万葉集」は、明日香ヤマトの謎を解く「鍵」を示しているのか。「万葉歌」を詠っていた、明日香ヤマトの民族は、現在の日本語語順を確立した民族であることを示唆する。それは、ウラル語を話す騎馬民族の突厥民族だ。では、その突厥語の書物は、明日香ヤマトに存在していたのか。 No.26、明日香ヤマトには、大和朝廷に不都合な書籍があったようだ。「続日本紀」に、元明天皇が年号を「慶雲」から「和銅」に改元した、708年に出された恩赦の記事に、 山沢に亡命して、禁書を隠しもっているもので、百日以内に自首しないものは、罪は初めのようにする。(死罪で、恩赦しない。) このことから、708年には、明日香ヤマトには、禁書があったのだ。これは、藤原日本史で述べる、645年蘇我蝦夷により、天皇紀・国紀が焚書されて、明日香ヤマトの歴史書は存在しない、と矛盾する。日本列島には、藤原氏にも読めない言葉や発音で記述された「書物」があったのだ。 No.27、では、突厥語が、日本語のルーツか。そうではない。突厥民族が、明日香ヤマトに侵攻した、6世紀半ばには、南方系のポリネシア語、先住民のアイヌ語、南インドのタミル語、朝鮮半島の高句麗語・百済語・ギリシャ・ローマ文化の新羅語が存在していたのだ。突厥語の特徴である、カナクギの象形文字(後のカタカナ)、子音に硬・軟の区別、母音の省略などにより、「たそがれ」・「タフノミネ・多武峰」(連山の意)などの突厥言葉を残しただけで、古代日本列島の共通語とはなれなかった。しかし、その突厥語の語順である、主語+目的語+述語は、日本列島に暮らす民族の共通語順として、今日に至っている。万葉語とは、万国の言葉の意味だった。 No.28、「万葉集」の構成が示す、雄略天皇から舒明天皇までの180年の空白が示す不自然さは、何を意味するのか。そして、仏を詠む歌が、「万葉集」にないのは何故か。舒明天皇の歌が詠われた後、孝明天皇時代の646年薄葬令が出され、明日香ヤマトでは、巨大前方後円墳の築造が禁止されていたのだ。しかし、「日本書記」で国譲りされたとする出雲地域では、依然、前方後円墳が造り続けられていたのだ。その前方後円墳築造禁止が出された孝明天皇時代の歌が、「万葉集」にはないのだ。 No.29、仏の歌を詠わない「万葉集」には、何かのメッセージが隠されているようだ。血・死者を穢れとし、そして、死者を燃やす仏教思想が、死者の再生を願い石室に石棺を収める古墳時代中期の552年に、仏教が本当に明日香ヤマトに伝来していたのか。「日本書記」の仏教伝来物語には、藤原日本史に消された歴史があるようだ。 No.30、仏教についての疑問は、江戸時代から多くのひとから発せられていた。そのひとり、江戸時代中期の白隠禅師が、仏の真理を研究するために多数の仏典を読破しても、悟りを得られなかったことにより、「うつ」になってしまい、その結果、悟ったことは、「仏典」には真理がない、ということだった。その仏教の謎を解明したのは、大阪の醤油屋の息子で町儒学者の富永仲基だ。富永仲基は、「出定後語」で、大乗仏教加上説を唱えた。大乗仏教加上説とは、後人は先人の説に自説を加えて正統を装うとし、釈尊の唱えた仏教と大乗仏教とは全く違うことを証明した。 No.31、では、釈尊の唱えた仏教の教えとは何か。それは、バラモン教の唱える輪廻転生のカルマから逃れるため、「非人となり、乞食して生きる」ことだ。そこには、救済も浄土もない。 No.32、大乗仏教による仏教物語では、紀元前6世紀に、シャキャ族の皇子であった釈尊は、人間の生死について悩み、29歳で苦行僧となり、35歳の時、心も物もすべて無関係に存在しているものではない、という真理を悟り、その思想により精神上の生死の苦しみから解脱できる、と説いたとする。 No.33、何故、釈尊は、バラモン教が唱える輪廻転生のカルマから逃れるために「非人・乞食」の思想を考えたのか。それは、釈尊の生国に問題があった。シャキャ族とは、遊牧・騎馬民族スキタイが、黒海沿岸からインドへ渡来した肉食の遊牧民族だ。そのインドへ、アーリア人が侵攻した。アーリア人が、そのインドを支配するために発明したのが、偶像崇拝の菜食主義のバラモン教だ。バラモン教は、先住遊牧民族のトラヴィダを支配するために、身分制度を発明した。それが、バラモンの神官・王と貴族・武士と庶民・奴隷の4身分のカースト制だ。しかし、その他にも身分制があった。それが、不可触賎民チャンダラー(施陀羅)だ。バラモン教では、肉食するトラヴィダ民族を貶めるために、そのようなカースト制を発明し、永遠に変身できないように、輪廻転生の思想を発明したのだ。 No.34、大乗仏教では、釈尊が「非人・乞食」の教えを守り生活するために、生き物を殺すな、ウソをつくな、盗むな、不適切に女と関係するな、そして、午後に食事をするな、身を飾るな、ベットではなく床の上で寝ろ、という五戒・八斎戒を唱えたとする。しかし、その五戒・八斎戒とは、キリスト教の十戒に酷似している。紀元1世紀、ローマ帝国と後漢とによる絹馬交易が盛んとなった頃発明された大乗仏教とキリスト教とには、共通点が多くあるのだ。 No.34、宗教とは、明治時代初期に、英語のリリジョンから作られた言葉だ。その宗教の神が、紀元前14世紀のヒッタイト帝国の楔型文字の粘土版に、契約神ミトラとして記されていた。異民族との交易は、騙し合いだ。どのような宗教でも、「ウソをつくな」との教えがある。それは、宗教の始まりが、取引の平等を求めるために発明された契約神だったからだ。 No.35、紀元1世紀、ローマ帝国と後漢との絹馬交易の中継都市ガンダーラで、新しい宗教が発明された。そのガンダーラは、ギリシャ文化継承国のバクトリアがあった地だ。だから、ガンダーラにはギリシャ文化が継承されていた。そのガンダーラで発明された宗教は、国際交易商人と供に、東西にもたらされた。「ウソをつくな。約束を守れ。」の教えは、国際交易では必須の条件だ。国際交易商人は、その新しい宗教と供に国際交易に励んだ。 No.35、紀元3世紀、インドのバラモン僧のナーガルジュナ(竜樹)が、釈尊の「永久に不変なものはない。」という思想を、インド人が発明した数学の「0」の考えを取り入れ、「空」の思想を発明し、そして、「慈悲」の救済思想へと発展させ、釈尊の「非人・乞食」の個人修行の仏教を、庶民救済仏教に変えてしまった。 No.36、国際交易商人により広められた、この全てのひとを救う救済仏教は、ローマ帝国と後漢との絹馬交易での国際交易に物流で関係していた遊牧・騎馬民族にも浸透していった。国際交易品を中国に運ぶ遊牧・騎馬民族は、中国の儒教や道教に対抗して、救済仏教をこころの拠り所としていた。 No.37、しかし、中国に渡来したばかりの竜樹の発明した救済仏教には、キリスト教物語ソックリの仏教物語とギリシャ彫刻によるガリガリの仏像しか、布教道具がなかった。中国の儒教には、霊魂をあの世に送り出す儀式があった。道教では、不老長寿の仙薬と風水術により庶民の欲望に答えていた。その儒教・道教に対抗して、救済仏教は、中国で変身して行く。ギリシャ彫刻のガリガリの写実的仏像は、女の柔肌に透ける衣装の仏像に替わり、読経もキリスト教の聖歌隊を思わすゴスペル調風となっていった。現在に伝わる仏教儀式の多くは、儒教や道教儀式から租借したものだ。しかし、護摩祈祷の儀式は、平安時代に空海が、拝火のゾロアスター教の儀式から租借したものだ。 No.38、ローマ帝国と絹馬交易で栄えた後漢も、北ユーラシアに興った遊牧・騎馬民族鮮卑の度重なる攻撃により、220年滅んだ。三国時代の内乱から五胡十六国時代にかけて、救済仏教は変身して行くのだ。五胡十六国時代の支配者は、漢民族ではなく、チュルク系騎馬民族やチベット系遊牧民族だ。国際交易のため、全民族に救済を約束した竜樹の救済仏教は、405年五胡十六国のひとつ、後秦(384年〜417年)でバラモン僧クマラジュ(鳩摩羅汁)により、漢訳仏教に変身したのだ。この漢訳仏教には、遊牧・騎馬民族を蔑視する言葉「施陀羅」がふんだんに取り入れられたのだ。 No.39、「施陀羅」とは、バラモン教で遊牧民族トラヴィダを不可触賎民とするチャンダラーの漢訳だ。この「施陀羅」は、肉食する騎馬民族に対抗するには、強力な思想武器となった。殺生禁止により平和を守るとする漢訳仏教思想で、肉食する支配者の騎馬民族を「施陀羅」として、不可蝕賎民とすることが出来るからだ。この漢訳仏教思想を、第二民族とされた漢民族は、支配者の騎馬民族追い落としに利用した。この漢訳仏教思想の布教が、五胡十六国に広がると、騎馬民族の中から、騎馬民族の風俗を遺棄する者も現れた。騎馬民族の漢化だ。五胡十六国後の、隋、唐、宋の支配者も、漢化した騎馬民族だった。 No.40、五胡十六国も、南朝は420年武帝により統一され、宋(420年〜472年)となり、北朝は439年太武帝により統一され、北魏(439年〜534年)となった。その北魏を統一した太武帝は、漢民族ではなく、鮮卑族だった。騎馬民族を蔑視する漢訳仏教思想により、五胡十六国の一部の王朝に食い込んだ漢訳仏教は、寺(ジ)という役所施設を国際交易基地としていた。鮮卑族の太武帝が、洛陽を陥落させ、城内の寺(ジ)を捜査させると、そこには夥しい武器が保管されていた。五胡十六国時代の漢訳仏教は、庶民救済よりも、国際交易に興味があったようだ。そのため、漢訳仏教僧は、国際交易品を保管する寺(ジ)を護るため、武装していたのだ。奈良の興福寺から始まる中国製武器の長刀で武装する僧兵の祖が、北魏にあった。そこで、太武帝は、騎馬民族を「施陀羅」とする漢訳仏教を、446年弾圧するのだ。この弾圧により、200万人とも云われる仏教僧が国外追放となり、移動可能のためにクギを使用しない仏閣と供に、その一部が朝鮮半島に渡来した。漢訳仏教を弾圧した太武帝は、民間土着宗教から発展した道教を優遇した。しかし、452年騎馬民族の風俗を嫌う騎馬民族の文成帝により、仏教を弾圧していた太武帝が暗殺されると、仏教と道教の立場が逆となった。北魏を追われた道教士は、朝鮮半島から日本列島へ、又は、中国大陸から日本海(東海)を渡り、東北の日本海沿岸へと渡来した。平安時代、錬金術師空海に敗れた産鉄民族により、出羽三山が修験道の聖地となったのは、東北には、仏教が伝来する前に、産鉄民族により山岳信仰宗教が土着していたからだ。その産鉄で「火を治める」ため、錬金術師空海の仏教軍団に下った産鉄者は、「ヒジリ」と蔑まれ、「聖」として仏教組織の下人となった。 No.41、騎馬民族を蔑視し、仏典と仏像により布教する漢訳仏教と、肉食を禁忌せず、不老長寿の仙術と薬草治療を行う道教とを比べれば、騎馬民族が受け入れた宗教は、漢訳仏教ではなく、道教の方だ。 No.42、この中国北魏から、道教が追放された時代の日本列島は、謎の4世紀に続く、藤原日本史では、倭の五王時代だ。倭王は、海洋民族で、騎馬民族ではない。しかし、藤原日本史で倭五王とする時代、日本列島の古墳の埋葬品が、祭祀道具から、実戦用の馬具や鉄武器・農具へと替わっていた。このことは、日本列島で、騎馬による戦闘がおこなわれていたことを示唆する。 No.43、5世紀後半の東アジアでは、南朝の宋、北朝の北魏、そして、東ユーラシアの柔然が支配していた。その柔然を、中央ユーラシアに興った騎馬民族チュルク系高車が攻撃をし、508年柔然を破った。その勢いで、高車は北魏を攻撃したため、北魏は、535年西魏と東魏に分裂した。そして、北朝は動乱の時代に突入した。 No.44、その北魏が東西に分裂した頃、藤原日本史では、欽明天皇7年(538年)飛鳥大和に、朝鮮半島百済の聖明王から、釈迦の仏像とお経三巻が届けられたとするのだ。その頃の朝鮮半島では、高車と北魏残党との戦闘により、高句麗が南下して、百済と新羅を圧迫していたのだ。その結果、北魏を追われた仏教徒が、528年ギリシャ・ローマ文化の新羅を占領したので、新羅の王族・貴族は北九州に亡命してきた。その時の、北九州での新羅亡命軍と先住民との戦いを、藤原日本史では、527年筑紫国造磐井の反乱として、大和朝廷での内乱としているのだ。 No.45、北魏を分裂させた高車を、バイカル湖沿岸に興った騎馬民族突厥が取り込み、西はカスピ海沿岸から、東は中国大陸極東までを支配し、552年突厥帝国を興した。この突厥帝国庭に、東ローマ帝国の返使ゼマルクスが入った。東ローマ帝国と突厥帝国とは、絹馬交易をおこなっていたが、その交易を中央ユーラシアを支配するエフタルが妨害していたからだ。そのエフタルは、東ローマ帝国軍と突厥帝国軍に挟み撃ちされ、563年散逸した。 No.46、この突厥が高車を取り込み、535年北魏を東西に分裂させた頃、藤原日本史では、飛鳥大和の朝廷に、突然、蘇我稲目が大臣となって現れるのだ。そして、蘇我稲目は崇仏派となり、廃仏派の物部尾輿と神仏戦争を起こした、と藤原日本史は述べるのだ。しかし、この神仏戦争の不思議は、父親に続いて蘇我馬子と物部守屋も続いて神仏戦争を起こした、とするのだ。そして、蘇我親子と物部親子との二度の戦争に、廃仏派として藤原鎌子が二度も登場していることだ。そして、その二度の神仏戦争のストーリーが、仏像を難波の堀江に捨てるなど同じなのだ。その二度目の神仏戦争の時に、少年「聖徳太子」が崇仏派として登場するのだ。その藤原日本史で二度も仏像を投棄したとする難波の堀江とは、唯の堀などではなく、河内湖の水を大阪湾に流し、海外からの大型外洋船を難波津(浪速←ローラン)に接岸するための大運河なのだ。そして、その堀江から取り出した仏像が、長野県善光寺にあるというのも不思議だ。その善光寺の仏像は、物部尾輿が投棄したものか、物部守屋が投棄したものか、その説明は無い。 No.47、では、この神仏戦争での、神とは何だ。一般的には、神道の神と信じられている。しかし、神道の神は、奈良時代に藤原氏により創作され突然現れた神だ。では、神仏戦争の神が、神道の神ではないのならば、一体、どのような神なのだ。 No.48、日本列島で、現在まで祀られていて、出自の分からない神が二神ある。そのひとつが、比叡山延暦寺の裏戸神である「魔多羅神」で、もうひとつが、ヤクザの的屋が祀る「神農皇帝」だ。その「神農皇帝=神農神」は、薬学部の生徒が祀る薬草学の神でもあるのだ。 No.49、比叡山の魔多羅神のルーツを辿れば、魔多羅神はミトラ神だ。その流れは、比叡山(平安時代、祭祀場跡に延暦寺)←三笠山(奈良時代、祭祀場跡に春日大社)←北九州(608年遣隋使が見聞した秦王国)←ギリシャ・ローマ文化の新羅(356年〜527年、新羅軍団は花郎騎士団=ミトラ騎士団)←秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)←ギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年、大月氏=弓月国)←アッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)←イスラエル国(紀元前932年〜紀元前722年)←ヘブライ(紀元前1230年〜紀元前932年)←古代エジプト(紀元前14世紀アメンホテプ4世時代)←ヒッタイト帝国(紀元前1900年〜紀元前1190年、日の出、天中、日没の三身一神の太陽神で契約神ミトラ)、となる。太陽のように再生を繰り返す、死者の復活を約束するミトラ神は、古代エジプトの土木建設と運河削掘技術を持つ秦氏と供に、死者の復活を信じる古代エジプトの埋葬形式を取り入れた石室・石棺を持つ古墳が現れた時代(5世紀半ば)に日本列島に渡来。 No.50、神農神のルーツを辿れば、神農神は道教の神のひとりだ。「神農皇帝」を祀る露天商の的屋(第三百済王朝の江戸時代中期、矢場で博打をおこなっていた。)←香具師(ヤシ。室町時代、役座が仕切る高市のバザールで香具類を商う。)←野士(ヤシ)←野武士(第二百済王朝の鎌倉時代、都を追われる。)←武士(平安時代、939年天慶の乱を騎馬武力で鎮圧したため、祭祀者の武芸者からガードマンの「武士」と王権から認められる。)←蝦夷(奈良時代、唐進駐軍に明日香ヤマトを追われ、陸奥国に逃れる。)←明日香ヤマトの武人(3世紀後期の古墳時代から645年まで、明日香ヤマトを軍事支配する。)←530年〜645年明日香ヤマトの花郎騎士団(ギリシャ・ローマ文化国新羅から渡来)+騎馬民族突厥帝国武人(フェニキアのアルファベットを利用し、漢字を使って明日香ヤマトの万国言葉を表記。カタカナの祖、カナクギ文字の楔形文字を持つ。突厥語語順は現在の日本語語順のルーツ。)、となる。 No.51、藤原日本史によれば、仏教伝来は538年か552年としている。しかし、明日香ヤマトが、唐進駐軍に壊滅された、645年に仏教興隆の詔が発せられている。これは可笑しい。藤原日本史によれば、593年聖徳太子は、女帝推古天皇の摂政となり、594年仏教興隆の詔を発しているではないか。そして、飛鳥大和には、聖徳太子が建立したとする七寺が存在していたのではないか。その謎は、588年着工したとする法興寺(飛鳥寺)跡の発掘物に、ガラス玉や埴輪など古墳埋蔵物と同じ物があることから、解明される。645年以前の明日香ヤマトには、仏寺など無かったのではないか。古墳が破壊された跡に、仏寺(法興寺=飛鳥寺)が、何処からか移築されたのではないか。蘇我馬子とされる古墳が破壊され、石室がむき出しにされた石舞台が現れた、奈良時代初期、明日香ヤマトは、藤原氏により仏教テーマパークにされたのではないか。それは、明日香ヤマトのオリエント文化と、蘇我氏とする騎馬民族突厥民族の歴史を抹殺するためではないか。 No.52、その推測が正しいとすると、蘇我氏と物部氏による、二度の神仏戦争とは何か。それは、藤原氏が、何かを隠す、或いは、消すために、親子二度の神仏戦争物語を創作したようだ。それでは、何故、藤原氏は、蘇我氏と物部氏を歴史上消そうとしたのか。 No.53、藤原日本史によれば、物部氏は587年に、蘇我馬子により滅ぼされ、そして、その蘇我氏は645年、中大兄皇子と中臣鎌足により滅ぼされた、としている。では、その物部氏と蘇我氏とは、何者なのか。 No.54、神仏戦争時の物部氏は、藤原日本史によれば、朝廷を護る軍事部族か祭祀部族で、河内を拠点とする豪族とする。そして、その出自を辿れば、河内←吉備←北九州となり、その先は不明だ。物部氏の九州支配時代とは、藤原日本史で云う倭五王の時代のようだ。藤原日本史では、その頃、飛鳥大和を支配する倭五王は、南朝の宋と交易をし、宋に替わり梁の時代、502年梁の武帝により倭王が征東大将軍とされたとする。その倭五王のひとりを、藤原日本史では、さいたま県稲荷山古墳から出土した剣にあるワカタケル大王を、雄略天皇とするのだ。つまり、5世紀の飛鳥大和を支配した雄略天皇は、倭王武で、梁から征東大将軍を賜った、とするのだ。しかし、倭王武が、478年宋の皇帝に出した上表文には、奈良の飛鳥大和には、倭王国が存在していなかったことを示すのだ。 昔より祖禰躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海の北を平らぐること九十五国。 この倭王武の上表文によれば、倭王の遠い先祖は、自ら甲冑で武装して周辺諸国を武力で制圧していたらしい。その文中で、倭国の位置を示す文章がある。それは、「渡りて海の北を平らぐる」の文章だ。奈良の飛鳥大和の北には、当然内陸の盆地なので、海などない。海の北の夷を平らぐことができるのは、北九州だ。その北九州には、弥生時代の倭族の先祖の埋葬形態を示す、甕棺に屈葬の遺跡が数多く発掘されている。弥生時代、その頃の奈良の盆地は、定期的に氾濫する河川により、ひとも住めぬ大湿地帯だったのだ。だから、古代エジプトの土木建築技術を持つ民族が、その大湿地帯を居住地にするために、奈良盆地に大運河を造り、巨大前方後円墳を築いたのだ。 No.55、五世紀の日本列島に、奈良の大和朝廷が支配する倭国などなかったことが、南朝である梁(502年〜557年)の「梁書」に記されている。それによれば、5世紀の日本列島には、倭国(北九州)、文身国(出雲)、大漢国(大阪)、扶桑国(東北)の国々の存在が示されている。もし、4世紀から奈良の飛鳥大和に、日本列島各地の豪族を支配下とし、日本列島各地に、巨大前方後円墳と同型の古墳を築かせ、そして、さいたま県の支配者に剣を贈るほどの大王が、奈良の飛鳥大和に存在したとするならば、当然、中国の史料にその王国の存在が示されているはずだ。 No.56、7世紀初期の奈良の王国の存在を示す中国史料がある。それは、608年隋使裴清(裴世清)の報告による「隋書」だ。それによると、都にて男王アマタリシヒコに謁見した、とある。藤原日本史によれば、その頃の飛鳥大和の朝廷は、女帝推古天皇(593年〜628年)と摂政聖徳太子とが支配していた時代とする。しかし、「隋書」によれば、飛鳥大和には女帝推古天皇など存在していなかったのだ。そして、隋使裴清は、北九州で中国ソックリの高度文化の「秦王国」を見聞していたのだ。藤原日本史では、3世紀の「魏志倭人伝」の卑弥呼については詳しく語るのに、7世紀の「隋書」による隋使の報告の存在を無視しているのだ。 No.57、中国の史料と藤原日本史の物語とには、整合性に多くの疑問が生じる。これは、どちらかが「ウソ」をついていることを示唆する。藤原日本史の基本史料は、720年「日本書記」だ。その720年「日本書記」の文章と、中国各帝国史料とを比べれば、記述の信憑性は、中国史料だ。 No.58、「日本書記」が、明日香ヤマトの歴史について「ウソ」をついているとすれば、明日香ヤマトの史実はどのように推測されるのか。藤原日本史による、538年蘇我稲目と物部尾輿、587年蘇我馬子と物部守屋との二度の神仏戦争とは、大阪湾に流れ込む淀川系水利の支配権を巡って、北九州から河内に侵攻した秦氏と、そして、日本海沿岸の東北→越前→琵琶湖まで侵攻した突厥帝国進駐軍との、20年間に及ぶ水利権戦争を消すための物語が示唆される。その淀川系水利権を支配すれば、内乱の中国北朝と朝鮮半島付け根を支配する高句麗を避けて、東ユーラシアと絹を生産する中国南朝との国際交易ルートが確保されるからだ。国際交易ルートの確保が必要なのは、秦氏も突厥帝国も、国際交易民族であるからだ。 No.59、秦氏が物部氏で、そして、突厥民族が蘇我氏(=継体天皇)であることは、北九州→吉備→河内への、秦氏と物部氏との侵攻ルートが、そして、突厥民族の明日香ヤマトへの侵攻が、越前→河内樟葉→山背筒城→山背弟国→大和磐余玉穂への、継体天皇(=蘇我氏)の侵攻ルートとダブルからだ。謎が多い継体天皇の存在は、「古事記」の継体天皇の年齢表示により否定できるのだ。「日本書記」では「57歳」で即位したとする継体天皇は、「古事記」の「享年47歳」で否定されるのだ。「古事記」は、「日本書記」の偽史を暴くために、平安時代初期、多人長が著した書籍なのだ。藤原氏による継体天皇の発明は、突厥民族の東北日本海沿岸から越前、そして、明日香ヤマトへの侵攻を歴史上消すためだった。 No.60、藤原日本史が述べる552年伝来とする仏教とは、突厥民族が、明日香ヤマトを支配した時にもたらした、漢訳仏教の敵である、神農神を祀る「道教」なのだ。つまり、藤原氏が述べる神仏戦争とは、秦氏により太陽を祀る「ミトラ教」(景教)と、突厥民族が祀る北極星(太一)を天神とする「道教」との戦いだったのだ。 第四章「消された明日香ヤマトの神々」 No.1、日本列島古代史を考察する時、考えなければならないことのひとつは、ユーラシア大陸を支配した騎馬民族の存在だ。その騎馬民族は、年がら年中戦争をしているわけではなく、平和時では、騎馬の輸送力を利用して、あらゆる困難を克服して国際交易をおこなう商業民族でもあるのだ。 No.2、藤原日本史が、「日本書記」で、552年仏教が飛鳥大和に伝来したとする時期に、中央ユーラシアに興った騎馬民族の突厥民族は、西はカスピ海沿岸から東は中国大陸北部の東ユーラシア全体までを支配する大帝国を、552年興しているのだ。そして、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていたのだ。そのため、国際交易品の絹を求めて中国南朝との交易をおこなうための交易路の確保に躍起になっていたのだ。しかし、中国北朝では、535年北魏が分裂して内乱状態にあり、そして、東ユーラシアから朝鮮半島を経て日本列島への最短経路には、強国高句麗が存在していたのだ。 No.3、騎馬民族突厥は、その祖はバイカル湖沿岸に興った民族だったので、海のようなバイカル湖を渡る航海術に長けていた。だから、東ユーラシアの極東のウラジオストク、ナホトカから、日本海を渡海して、日本列島に至ることは、騎馬民族突厥には困難なことではなかった。6世紀半ば、ユーラシアを支配した騎馬民族突厥は、東ローマ帝国との絹馬交易のため、日本列島を回廊として、絹を産する中国南朝との国際交易を望んでいたのだ。 No.4、589年中国を統一した隋に、突厥の可汗は「天子・テングリ」として隋の皇帝に書を致した。その提出時期は、藤原日本史が述べる、聖徳太子が隋の皇帝に「国書」を出したとする少し前だ。 天より生まれたる大突厥の天下聖賢天子のイリキュルシャドバガ・イシュバラ可汗、書を大隋皇帝に致す。 その国書を出した後、582年突厥は、隋に侵攻したが破れ、翌年、突厥は東西に分裂した。藤原日本史によれば、その頃の日本列島の明日香ヤマトでは、蘇我馬子(突厥進駐軍王)が、大臣として飛鳥大和朝廷を支配していたとする。そして、592年蘇我馬子は、崇峻天皇を暗殺した、とするのだ。 No.5、藤原日本史では、607年遣隋使小野妹子は、隋の皇帝に「国書」を提出した。その「国書」とは、 日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや。 その返書はなく、その代わり、翌608年隋使裴清(裴世清)が倭国に派遣されたのは何故か。隋使裴清は、倭国の都で、女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒシコに謁見し、何を語ったのかは謎だ。そして、その年に隋使裴清は帰国した。 No.6、6世紀後半のユーラシア大陸を支配していた突厥帝国が、583年東西に分裂したことにより、突厥帝国軍団の一部が、日本列島に渡来した。そのことにより、明日香ヤマトは、隋帝国軍の侵入に備えて、軍事要塞化されたのだ。藤原日本史で述べる「聖徳太子の国書」とは、敗者復活を求める明日香ヤマトの突厥帝国残党による、隋皇帝に対する挑戦状であったのだ。しかし、その隋帝国は、高句麗侵攻の失敗により、618年滅んだ。 No.7、618年隋が滅ぶと、唐が興った。唐の国際都市長安には、各国の国際交易商人と供に、ゾロアスター教やネストリウス派キリスト教などの西域の僧侶が、571年ムハンマドにより興されたイスラム帝国から逃れるために、多数渡来していた。6世紀のユーラシアを支配した突厥帝国の国力が衰えたのは、中東に興ったイスラム帝国の商人が、東ローマ帝国との絹馬交易権を奪ったからだ。東ローマ帝国との国際交易ができなくなったため、突厥帝国の軍団の中には、進んで、唐軍団に走ったものも多くあった。その結果、東突厥は、630年唐帝国軍により散逸されてしまう。 No.8、母国東突厥を失った明日香ヤマトの支配者は、来るべき唐帝国軍の侵攻にそなえて、軍事施設の「ミヤケ」を畿内から瀬戸内海沿岸地域にかけて築き、北九州には大きな堀を築き「水城」とした。明日香ヤマトの防衛軍は、唐進駐軍は瀬戸内海からか、或いは、若狭湾からの侵攻を想定したので、軍事都市明日香ヤマトの備えは、北側と西側を強化した。南側は吉野山系により、唐軍団が侵攻しないと考えたわけだ。明日香ヤマトの南側を守るのは、多武峰の山城だけだ。しかし、唐進駐軍は意外なところから現れた。 No.9、645年この唐軍の明日香ヤマトへの侵攻の経緯は、「日本書記」の神武天皇東征物語に述べられている。その物語では、神武天皇軍が、九州から飛鳥大和を攻略するために、河内湾の西側から奈良盆地を攻めたが、ナガスネヒコの先住民族の抵抗に会い、撤退を余儀なくされ、紀ノ川河口まで逃れた。そこで、正攻法では勝利できないと悟った神武天皇軍は、飛鳥大和を護る宇陀のウカシ・オトウトカシ兄弟を仲違えさせ、オトウトカシに宇陀の情勢を密告させるのだ。そして、ウカシを殺害した後、神武軍は熊野の古道により、南側から明日香ヤマトに侵攻したのだ。この「日本書記」の神武天皇東征物語の登場人物を、神武天皇軍を「唐進駐軍」、宇陀のオトウトカシを「中臣氏」(藤原氏の祖)、ナガスネヒコを「新羅花郎騎士団」、ウカシを「突厥帝国軍」とすれば、645年明日香ヤマトがどのようにして壊滅したかを想像できる。 No.10、645年明日香ヤマトを追われた突厥帝国軍残党と新羅花郎騎士団残党は、秦氏が支配している、奈良盆地の北側の山背国に落ち延びるのだ。しかし、この明日香ヤマトの歴史は、645年の焚書で消されてしまった。この焚書事件を、藤原日本史では、645年蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を焚書した、とするのだ。しかし、書物は焚書できるが、言葉や風俗・文化は、為政者により人為的に消すことは出来ない。遺跡も破壊から免れることにより、物言わぬ資料となる。 No.11、645年明日香ヤマトを唐進駐軍が支配すると、その配下の中臣氏は、籐氏(藤原氏は正式文章では「籐氏」)と名乗った。686年日本国初の天皇である、新羅系天武天皇が崩御すると、藤原不比等は、女帝持統天皇を傀儡として、偽書編纂にとりかかった。701年奈良盆地を完全支配した唐進駐軍は、日本列島住民を法律と罰で支配するために、唐制にならい、大宝律令を発した。名実ともに唐進駐軍の傀儡として実権を握った藤原不比等は、律令にもとずく地方からの収税体制を確立するために、山陰道は伯耆国、山陽道は備後国、南海道は讃岐国、東海道は相模国、東山道は信濃国、北陸道は越中国の諸国の国司(ミコトモチ)達に、任国の「土風の歌舞」や「風俗の歌舞」を奏上させた。それは、偽書「日本書記」を創作するための資料集めだ。 No.12、古墳時代に敷設された各国に通じる道とは、唯の道ではないのだ。側溝を持ち、何層にも土固められた道幅は、狭いところで12mもあるのだ。そして、谷は埋められ、峠は切り通された直線道路だったのだ。それは、正に、ローマ帝国軍の軍事道路と、その敷設思想は同じだ。そのひとつの東山道は、東北の秋田までつづくのだ。藤原日本史によれば、東北の秋田は、801年坂上田村麻呂にアテルイが騙されて支配されるまで、未開の地ではなかったのか。そして、更に、713年藤原不比等は、各国の国司に、風土記撰上の詔を発した。そして、同年「畿内七道の諸国郡郷の名は、好字を著けよ。」の好字令により、古来からの日本列島各地の郡名・郷名が、騎馬民族の歴史と供に消されたのだ。 No.13、藤原日本史の不思議のひとつは、時代的に古いほど、飛鳥大和から距離的に遠いほど、大和政権や律令制度との係わり合いが深く整合的に整えられていることだ。これはどういうことだ。それは、地方の異民族に強制的に提出させた古い史料を基に、藤原氏に都合よく、歴史物語が創作されているからだ。「日本書記」は、藤原不比等により、各国の被支配者から集められた史料を参考に、創作されていたからだ。 No.14、「日本書記」が藤原氏による偽書である根拠のひとつとして、646年「大化の改新」の詔がある。その詔では、人民を統治するために「郡制」を施行したとする。しかし、郡制の施行は、646年ではなく、701年大宝律令以降で、それ以前は、評制であったことは、藤原京跡出土の木簡により証明されているのだ。 No.15、藤原日本史では、4世紀に飛鳥大和に天皇家による王権が存在していたとする。その根拠として、三輪山麓の傾斜地に巨大前方後円墳が築かれているからとする。つまり、藤原日本史では、巨大前方後円墳は、天皇家の墓とするのだ。しかし、巨大古墳の築造の目的は、その地域を支配した者の墓だけではないようだ。 No.16、4世紀から5世紀前半にかけて、能登七尾市域に、南側に径67m高さ14.5mの円墳と北側に全長70mの前方後円墳が築かれている。この地域には、政治勢力の並存は考え難い。では、同時期に築造された円墳と前方後円墳は、唯、死者を埋葬するだけの墓なのか。古墳文化の民族は、死者は再生すると信じられているので、分断して埋葬することはない。だとすると、二つの異なる形式の古墳は、唯の墓ではなく、あることを目的にする記念的営造物と考えられる。 No.17、巨大古墳は、藤原日本史で主張するように天皇家の墓として発明されたのではなく、異民族が暮らす地域での共同体を形成するために、そして、その結果としての、地域的専制体制を意図して、高度土木建築技術を持つ渡来民族により、その時代時代の情勢に合わせて築かれたものだ。 No.18、巨大古墳出現時には、前方後円墳と同時に、前方後方墳も築かれていた。その二つの巨大古墳を分解すると、前方後円墳=方墳+円墳だ。そして、前方後方墳=方墳+方墳だ。円墳は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅慶州に多く発掘されている。方墳は、騎馬民族が、ユーラシア大陸から日本海を渡海して訪れた、日本海沿岸の出雲、北陸に多く発掘されている。そして、4世紀初期の前方後方墳は、近畿地域よりも、北陸諸地域に断然多く発掘されている。その同時期に築かれていた二つの巨大古墳は、やがて、前方後円墳に統一されていき、そして、古墳時代後期には、前方後方墳はほとんど発掘されない。 No.19、では、前方後円墳が、唯の墓ではなく、記念碑的営造物だとすると、その場でおこなわれた儀式とは、どのようなものか。藤原日本史では、二度の神仏戦争で、祭祀民族とする物部氏が廃仏派で、日本列島古来の神を祀らず、蕃神の仏を祀ると祟りがある、と述べている。そして、その神は、神道の神とするのだ。しかし、藤原日本史による、この説明は可笑しい。それは、神道は、死を穢れとしているからだ。 No.20、巨大古墳を破壊し、穢れ思想が蔓延していた平安時代では、危篤状態のひとは、息のあるうちに外に放り出されていたのだ。死者が、家内にいると、その家自体もその家族も全て「穢れ」てしまうからだ。その穢れを祓うために、その喪の日数も規定されていたのだ。平安時代と異なり、死者の復活を信ずる古墳時代に、死を「穢れ」とする神道の神が、古墳を築いた民族に受け入れられていたはずはないのだ。このことからも、死者の復活を信じる古墳時代(畿内4世紀〜645年・畿外4世紀〜8世紀半ば)に、穢れとして死者を燃やしてしまう漢訳仏教が、646年薄葬令が出るまで古墳を築いていた明日香ヤマトに、552年伝来していたはずはない。天皇で初めて火葬されたのは、697年女帝持統天皇だ。その前686年崩御の天武天皇は、土葬だった。 No.21、騎馬民族が多く渡来した日本海沿岸の越前国、能登国を中心に、日本海沿岸地域には、カラカミ(漢神)信仰が、奈良時代から平安時代まで残されていた。その神は、官製の神ではないため、大和朝廷の神祇統制や仏教統制にも把握されていなかった。では、そのカラカミと大和朝廷から云われた神は、どのような神であったのか。 No.22、唐進駐軍を後ろ盾にしていた藤原氏が、国璽を私邸に持ち込んだり、勝手に貨幣を鋳造したり、天皇家の権威を排除したり、唐進駐軍傀儡から独立するために起こした、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱により、薩摩ハヤトを中心とした藤原軍団は壊滅され、それに替わり、亡命百済貴族末裔の光仁天皇の息子桓武天皇が、唐進駐軍の傀儡となった延暦年間、791年(延暦10年)、801年(延暦20年)、越前に詔が発せられた。それは、牛を殺してカラカミを祀ることの禁止だ。(「続日本紀」による。)この牛の屠殺禁止は、越前だけではなく、それ以前の、奈良時代741年にも牛の屠殺禁止が、朝廷から発せられていたのだ。 No.23、では、大和朝廷は、何故、牛の屠殺を禁止したのか。藤原日本史で述べる552年仏教伝来により、殺生禁止の思想が広がっていたから、という答えは、答えにならない。もし、全ての動物の屠殺禁止であれば、何故、牛の屠殺だけ詔を出してまで禁止したのかを説明できないからだ。牛の屠殺とは、食肉を取るためではなく、蕃神のミトラ教の宗教儀式だったのだ。古墳時代の民族は、仏教・神道が伝来する以前に、ミトラ教の儀式により、日照りを解消するために、古墳近くの斎場で牡牛を屠っていたのだ。 No.24、太陽を神として祀り、牡牛を太陽の化身とするミトラ教では、太陽が冬至に死に、そして、再び復活することを、牡牛の犠牲儀式により再現したのだ。この儀式は、紀元前14世紀イクナトン4世の宗教改革が失敗し、そのことにより古代エジプトから脱出した民族が、シナイ半島で遊牧民族と出会ったときに発明されたようだ。 No.25、では、そのミトラ教を日本列島に、いつ誰が持ち込んだのか。考えられるのは、ギリシャ・ローマ文化国新羅からだ。ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、漢語ではなく、漢字をアルファベットとして使用していたのだ。もちろん、中国皇帝と漢語でコミニュケーションが執れなかったので、漢訳仏教が伝来していた高句麗や百済の通訳を必要としていたのだ。そして、527年まで、古代新羅は、仏教国ではなかったのだ。それは、古代新羅は女王国であったので、血の禁忌により女性を蔑視する漢訳仏教など受け入れるはずはなかったのだ。この古代新羅の軍団は、ローマ帝国軍と同じに、、ミトラ神を軍神として祀っていたのだ。そのため、古代新羅の軍団は、花郎騎士団と呼ばれていた。「花」とは、「ミトラ」の借字だ。このミトラ教は、秦氏と供に、古代エジプトの埋葬思想と同じ横穴式石室・石棺を持つ古墳が出現した頃、日本列島に伝来したのだ。その石室・石棺の古墳時代には、ミトラ教の他に、騎馬民族と供に、道教が伝来していた。 No.26、藤原日本史では、日本列島には、神道と仏教のみが、朝廷で認められていたとし、ミトラ教や道教の存在を認めていない。その明日香ヤマトのミトラ教と道教を歴史上消すための仕掛けが、「日本書記」による、蘇我氏(=突厥軍団)と物部氏(=秦氏)が登場する二度の神仏戦争物語だ。しかし、現在の伊勢地域には、「太一」信仰がある。太一とは、北極星のことだ。平安時代、「日本書記」の偽書性を暴くために、多人長は812年「古事記」を創作し、古墳時代の明日香ヤマトでは、「仏」ではなく、「北極星」を祀っていたことを暗示するために、「天御中主命=北極星」を神話の最初の神としたのだ。その北極星は、道教では神であるのだ。その道教の神である北極星を護るのが、北斗七星で、それは、真人と呼ばれた。その真人は、天皇を護る高官名だ。天皇による人民支配システムは、騎馬民族の支配システムから発明されたものだ。再生を信じる騎馬民族は、不老不死の神仙思想の道教を信仰していたので、その騎馬民族の支配システムには、道教思想が取り込まれていたのだ。それに、騎馬民族にとって、天の中心で不動の北極星は、目標が定かではない大草原を移動するには、現在位置を示すナビゲータでもあったのだ。騎馬民族は、「夜」北極星を眺め、現在位置を確認していたのだ。 No.27、古墳時代の明日香ヤマトで、ミトラ教や道教が支配者により祀られていたが、645年唐進駐軍に、明日香ヤマトが占領されてしまったため、ミトラ教徒や道教士は、山奥に逃れたのだ。そして、それらの祭祀者は、侵攻して来た漢訳仏教により、「鬼」と呼ばれて行くのだ。 No.28、古代の政治とは、「マツリゴト」と言い、政治は祭祀儀式と密接な関係でおこなわれていた。その「マツリゴト」の最高祭祀者が、その民族の支配者ということだ。だから、支配者は、その民族の宗教シンボルを祀るのだ。秦氏は、太陽神ミトラを祀るので、「日・太陽」を祀り、突厥民族は、「北極星」(太一)を祀る。だから、秦氏の祀りがおこなわれるのは、太陽がある「昼間」だ。そして、突厥民族の祀りがおこなわれるのは、北極星がある「夜」だ。645年以前の明日香ヤマトでは、秦氏と突厥民族とが、それぞれ「昼」と「夜」に分かれて政(まつりごと)をおこなっていたのだ。その二つの異なる民族による二重政治を意味するのが、「明日香ヤマト」の地域名だ。奈良県の530年から645年までの「明日香ヤマト」とは、突厥民族の都の意味のアスカと、秦氏の北九州「秦王国」の山台国(大分宇佐地域の山は台型山が多く存在している。)を合体させたものだ。それを、藤原氏は、713年の好字令により、「飛鳥大和」として、前政権の突厥民族と秦氏の歴史を消していたのだ。 No.29、日本列島の明日香ヤマトの「マツリゴト」を示す史料がある。それは、藤原日本史が、隠蔽した、600年遣隋使と隋文帝との遣り取りを記した文章だ。その文章には、遣隋使による倭国の政治についての説明がある。 倭王は天を以って兄とし、日を以って弟と為す。天未だ明けざるとき、出て政を聴き、跏趺して座す。日出づれば便ち理務を停め、倭が弟に委ねんという。 明日香ヤマトの600年とは、藤原日本史では、女帝推古天皇(593年〜628年)と摂政聖徳太子が政をおこなっていた時代だ。しかし、隋の国書である「随書」には、遣隋使の報告のによれば、政治は「昼夜」の二重体制となっていたことが示されている。その600年遣隋使の記事は、「日本書記」にはないのだ。そして、その「隋書」の文章には、倭王は騎馬民族であることが示されている。それは、「跏趺して座す。」の文章だ。その座り方は、「アグラ」だ。騎馬民族の正式な座り方だ。現在では、「アグラ」は下品な座り方と言うが、正座は、漢訳仏教が広めた罪人の座り方なのだ。 No.30、藤原日本史で云う推古天皇の時代、奈良盆地には、北側の飛鳥と、南側の斑鳩とに都があったとする。北側の飛鳥では女帝推古天皇が政をおこない、聖徳太子は蘇我氏の横暴を避けるために、南側の斑鳩に引越し、毎日、その20kmほどの距離にある飛鳥まで、愛馬黒駒により通勤していた、とするのだ。だとすると、馬が疾走できるのは昼間であるから、飛鳥大和での政は、藤原日本史によれば、「昼間」におこなわれていたことになる。すると、「隋書」との整合性が合わないことになる。それでは、「日本書記」か「隋書」とのどちらかが「ウソ」をついていることになる。 No.31、藤原日本史では、その聖徳太子が住む斑鳩に、607年法隆寺を建立したことになっている。しかし、その法隆寺は、670年落雷により全焼してしまった、と言うのだ。昭和の中頃、その法隆寺境内で発掘がおこなわれた。そこで、遺構が発掘されたのだ。その遺構は不思議なことを示していた。その遺構は、仏教寺院建築基準に合わないのだ。仏教寺院建築基準は、南北軸だ。しかし、その遺構は、南北軸より西に約20度傾いているのだ。この南北軸から西に約20度傾いている遺構は、古墳時代には秦氏の棟梁秦河勝の支配地であった、太秦の広隆寺跡(弥勒菩薩=ミトラ神が祀られていた。)からも発掘されている。これはどういうことなのだ。 No.32、太陽神ミトラを祀るミトラ教では、冬至は聖なる特別な日だ。ミトラ教では、太陽が最も低い位置にある12月25日(キリスト教は、ミトラ教の聖なる日を「クリスマス」として取り込んだ。)に、太陽神再生のため、太陽神の化身である牡牛を屠るのだ。そのための祭祀施設は、冬至の太陽が当たる、南北軸から西に約20度傾けて建設されるのだ。このことから、法隆寺境内から発掘された遺構は、ミトラ教の宗教施設であることが示唆される。斑鳩は、秦氏の祭祀者が、「昼」に政をおこなう都だったのだ。だとすると、飛鳥は、突厥民族が政を「夜」おこなう都と推測される。 No.33、藤原日本史では、崇仏派の蘇我氏は、仏像を安置するために、私邸を仏寺とした、とする。そして、588年法興寺(飛鳥寺)の建設着工をし、596年完成した、とする。しかし、その法興寺跡を発掘すると、古墳の埋蔵物と同じものが出土したのだ。そこから考えられることは、法興寺は、古墳を破壊した跡に移築されたということだ。この推測が正しいとすれば、法興寺の移築時期は、588年ではなく、畿内の古墳時代が終焉した645年以降が考えられる。この推測を証明するように、この飛鳥地域からは、仏教文化では説明できない、オリエント文化を示すような遺構・遺物・石物などか沢山発掘され「つづけて」いる。 No.34、奈良盆地では、明日香ヤマトのオリエント文化色の強い石造物、大路、大運河の遺構・遺跡が、今も発掘されつづけている。藤原日本史信奉者は、それらの遺構・遺跡の説明として、「日本書記」にある斉明天皇の業績に結び付ける傾向がある。「日本書記」によれば、皇極天皇(641年〜645年)が斉明天皇(655年〜661年)となって、飛鳥大和に、大運河、石積みの丘、多武峰に宮を建設していた、とするからだ。しかし、藤原日本史で言うところの飛鳥時代、つまり、古墳時代に敷設された大路と言われる幅広の直線道路は、南北軸ではなかったのだ。その斑鳩から飛鳥につづく大路は、藤原日本史では、「太子道」と云われている。それは、聖徳太子が通勤のため、愛馬黒駒で疾走したからという。その大路は、南北軸から西に約20度傾いているのだ。それは、斑鳩の都が、南北軸から西に約20度傾いているからだ。斑鳩は、ミトラ教の都だったのだ。 No.35、645年唐進駐軍が、明日香ヤマトの支配者を奈良盆地北の山背国に散逸し、694年唐の都を真似た藤原京に遷都する時、奈良盆地に大路を敷設するのだが、その敷設基準は南北軸だ。その南北軸の大路の下から、「太子道」が発掘されていることは、「太子道」は、藤原京遷都時代よりも古いということだ。 No.36、「太子道」を斉明天皇が敷設したとするならば、斉明天皇は、ミトラ教信者だったのか。斉明天皇の「斉明」とは、「あまねく照らす。」の意味だから、太陽天皇ということになる。しかし、藤原日本史では、「太子道」で飛鳥まで通勤していた聖徳太子は、622年46歳で死去したことになっている。それでは、655年に即位した斉明天皇は、「太子道」である大路を、奈良盆地に敷設することは不可能だ。だとすると、古墳時代(飛鳥時代)に、奈良盆地に、南北軸から西に約20度傾いた大路を敷設したのは、誰なのか。 No.37、奈良盆地の大運河にも疑問がある。それは、608年小野妹子に伴って来朝した隋使は、難波津で川船に乗り換え、都に至っていたからだ。奈良盆地の大運河は、655年即位した斉明天皇以前の、608年には存在していたのだ。そして、斉明天皇が建てたと言う多武峰の両槻の宮も、その地には、4世紀から石組で麓を囲った朝鮮式山城があったのだ。すると、結果的には、斉明天皇が大土木事業により造ったとするものは、それ以前から明日香ヤマトに存在していたものばかりだ、と言うことだ。藤原氏は、斉明天皇の大土木事業物語を創作して、明日香ヤマトの「何」を消そうとしたのか。 No.38、現代の考古学研究によれば、その発掘物から分類すると、4世紀から6世紀中頃までの日本列島には、いくつかの文化の異なる地域国家があったようだ。地域国家としての条件は、王権の存在と支配組織、支配地域、独自の文化的特徴の三っだ。その条件を満たすのは、九州のツクシ、瀬戸内のキビ、近畿のヤマト、丹後のタニハ、日本海西部のイツモ、関東のケヌだ。中国の「梁書」によれば、九州の倭国、出雲の文身国、大阪の大漢国、東北の扶桑国だ。藤原日本史が述べるように、4世紀に興った飛鳥大和の朝廷が、日本列島の四方を支配していたとする、考古学的証拠などないのだ。それらの、日本列島に並存していた地域国家が、交渉や競合の結果、6世紀半ばから7世紀にかけて、明日香ヤマトを中心に統合されていったようだ。その時の明日香ヤマトの支配民族が突厥だったので、日本列島各地の異民族地域国家との統合時に使われた言葉が、ウラル語系の突厥語だった。だから、現在の日本語の語順が、中国語語順の主語+述語+目的語ではなく、突厥語の語順の主語+目的語+述語となったのだ。 No.39、では、どのような民族が、日本列島の地域国家を統合したのか。奈良盆地のある地域をアスカと呼ぶが、アスカは奈良盆地だけではないのだ。日本全国には分かっているだけで、アスカの地名があるところは、東は山形県最上川下流のアスカ神社から、西は長崎県まで30から40ヶ所もあるのだ。そして、アスカの地名のある地域には、「蘇我氏の文化」が認められるのだ。「蘇我氏の文化」とは、オリエント文化と騎馬民族文化だ。その蘇我氏(突厥民族)が、明日香ヤマトに現れた、6世紀中頃から、日本列島に大変化が起こっていたのだ。 No.40、5世紀後期、中央ユーラシアに興った、騎馬民族突厥は、6世紀半ばには、西はカスピ海沿岸から、東はユーラシアの極東までを支配し、突厥帝国を興していた。その突厥民族は、日本海を渡り→佐渡→越後→越前→敦賀→琵琶湖の石山津・塩津→木津川・淀川の津→明日香ヤマトへと侵攻した。そして、6世紀半ば、明日香ヤマトを支配すると、国際交易品である絹製品を求めて中国南朝に至るため、西への交易路を確保するために、吉備と出雲を攻めたのだ。吉備は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地だ。そして、出雲は、国際海洋民族の安曇族の支配地だ。 No.41、出雲と言うと、「日本書記」の出雲の国譲り物語を想像して、4世紀の大和朝廷に支配された、と信じているひとが多くいるようだ。しかし、その「日本書記」の出雲の国譲り物語は、日本初の天皇であり、一世一代の天命を受ける大嘗祭を発明した天武天皇が、686年崩御した後、藤原不比等により、鎮魂祭のための天磐戸物語と大嘗祭のための天孫降臨物語を繋ぐために創作されたものだ。出雲王国は、藤原日本史の神話時代で大和朝廷に国譲りしていたのとは異なり、考古学的に4世紀末から7世紀中期まで独自の文化により存在していたのだ。 No.42、出雲王国は、東南アジアから北上する黒潮、黒潮が北上し朝鮮半島と北九州に分流する対馬海流、シベリアから南下するリマン海流を利用して、九州や太平洋諸地域、朝鮮半島、中国東北部、シベリア東部と国際交易をおこなっていた。特に、九州とギリシャ・ローマ文化の新羅とは頻回に行き来していた。この出雲を支配できれば、中国東北部と朝鮮半島との交易路が確保できる。出雲王国が、突厥民族に支配されたことを示す史料はない。しかし、6世紀後半から、出雲西部には、今までは方墳か前方後方墳であったものが、前方後円墳に替わっていくのだ。前方後円墳は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅円墳文化と騎馬民族の方墳文化の融合を示す。これは、今までの支配体制の変化を示唆する。そして、明日香ヤマトでは、大陸との交易が盛んになっていくのだ。その国際交易のために、河内湖を塞ぐ上町台地に大運河を通し、そして、その浪速津(ローラン)からの荷を明日香ヤマトに運ぶために、奈良盆地に、大運河と大路が造られたのだ。そして、国際交易民族でもある突厥民族は、明日香ヤマトの都で、国際交易のためにオリエントから渡来した貴賓をもてなすために、噴水のある庭園を造り、そして、中国諸国に売り込むための交易品のガラス製品、金属製品、医薬品を作る工場を建設していたのだ。これにより、東ユーラシアからの荷が、東北の秋田酒田津から、東山道を通り、明日香ヤマトに至り、そこから出雲或いは浪速津まで運ばれ、中国東北部・朝鮮半島へ運ばれたのだ。645年まで騎馬民族突厥が支配した明日香ヤマトには、藤原日本史が述べる、継体天皇も聖徳太子もいなかったのだ。 完 明日香ヤマトは国際都市だった。 オレは、田辺さんのレポートを読み終わると、体内のエネルギーが過剰放電したように感じられた。ボーッとして、意識が感じられなかったのだ。それは、田辺さんの日本列島古代史ストーリが、学校で学習した日本古代史を全て否定しているからだ。継体天皇の存在を否定するのは、まぁ、理解できる。が、聖徳太子の存在否定は疑問だ。聖徳太子が歴史上存在していないとすれば、仏教の伝来も、日本国初の大和朝廷の法律も一緒に否定されるからだ。つまり、聖徳太子の存在を否定することは、日本国の黎明期の飛鳥時代の存在も、否定することになるからだ。その飛鳥時代を、田辺さんは、古墳時代と言う。 学校で使用する歴史教科書は、偉い歴史学者が執筆したものだ。その歴史教科書は、官の検閲を受けているのだ。その日本国政府公認の歴史教科書には、「ウソ」など存在しない「はず」だ。それなのに、田辺さんは、教科書歴史を藤原日本史として否定している。何故、そんなことが言えるのか、オレには理解できなかった。でも、読み物としては面白かった。オレは、熱い紅茶を一杯飲み干すと、暗室に入った。